彼女たちは何故にキリストの花嫁と呼ばれるのか

マーガレット・スターバード著『マグダラのマリアと聖杯』を読んだ。
皆さんもご存知の『ダ・ヴィンチ・コード』のタネ本といわれている
著作の一つです。
主旨としては、ナザレのイエスは実は結婚しており
その妻はマグダラのマリアである。
根拠は、当時のユダヤ教では妻帯していないことは成人男子に
あるまじき怠慢であり、もしも30歳前後だったナザレのイエスが
妻帯していなかったら、聖書の記事に書かれていたはずだ、
というもの。パリサイ人にもそのことで非難されていていいはず
なのに、それが一つもそれらしき記述が見当たらないことだ。
そして十字架刑になったイエスの妻の名前がわかれば、
必ずローマに狙われるのでマリアはアリマタヤのヨセフと共に
エジプトのアレキサンドリアに逃げ、そこからガリアに(南フランス)
に渡った。南仏では黒いマリア像が多数あり、『サラ・カリ』という
祭りが残っている。それはマグダラのマリアが生んだ娘サラ
のことであり、『カリ』というのはアラビア語で黒いという意味があり
サラというのはヘブライ語で女王、王女を意味する。
つまり、キリストの血を受けた聖杯とはマグダラのマリア自身、
イエスの血を引いた子供を宿した子宮…と、こういった本です。

大変、面白かった訳なのですが、そこで新たな疑問が!
この本には『花嫁』という言葉が何度も出てきます。
もちろん、天上の王(花婿)と聖婚(ヒエロスガモス)
をする大地の女神のことです。
私はこの花嫁という言葉にちょっと引っかかるものを
感じました。引っかかると言っても、納得がいかないという
意味ではなく、他にもどこか花嫁を連呼する場所があったぞ
と気づいたのです。そう、そこは女子修道院。

女子修道院では、修練期を終えて誓願を立てる時に
花嫁衣装を着るのです。
ご丁寧に左手の薬指に指輪をはめて(これは司祭も同じ)
白いパンプスを履きヴァージンロードを歩くのです。
実際に女子修道院で修道女として生活していた女性の
手記を読みました。(『狭き門を通って』カレン・アームストロング)
他にも修道者のノンフィクションを何冊か読んだのですが
何か判で押したような生活をしています。
(男子修道院の方の生活はよくわかりません。
 一日のスケジュール等はわかるのですが、それについての
 感想や信仰上の葛藤、苦悩などは不明。書く人があまり
 いないのか、本がないんですよ)
今現在はどうなのか分かりませんが、一昔前はそうだった
ようです。
で、竹下節子氏の本に聖女と呼ばれた修道女を扱った
ものがあって読んだのですが、実際に『自分の元にキリストが現れた』
と言う人がけっこういた、ということなんですね。
しかし、なぜそんな事を言うのか、私にはとても疑問でした。
修道女がキリストと結婚しているのと同じ、という表現が
ままあるのは知っていました。
でも、幻を見て恍惚となるほどの人が出るには、動機として
ちょっと弱いんじゃないか? と思っていたのです。
いくら画一的な閉じこもった生活をしているからといって
キリストとエロティックな関係になるという幻を見る人が
続出するのはおかしいのでは? それこそ、判で押したように。
幻を見るならコレ!みたいな感じなんですよね。

そこで、浅学な頭でドラマチックなことを考えてみました。
あくまでも仮説というか思いつきなのですが、

中世の修道女は貴族の娘が多かった。
中には南仏の貴族の娘もいたハズ。
南仏では異端カタリ派などが隆盛を誇っていた。
後にローマカトリックはカタリ派を弾圧、南仏貴族の娘を
他の地方の貴族と強制的に結婚させる政策を取っている。
純血の系統を主張させないためと思われる。

上記を踏まえて、もしもその結婚をどうしても
承知しない娘がいたら、どうしただろうか…?
やっぱり、尼寺へ行け!尼寺へ!! となったんじゃないだろうか。

その娘がカタリ派の教育を受けていれば、自分は『花嫁』になる
可能性がある、と思っていても不思議はないのでは?
もし、そう思っている娘が修道院に入って厳しい戒律や
自己否定プログラムに遭遇したら、どうなったでしょう。
元カタリ派なら矯正プログラムだってあるかも。
このくらい理由があれば幻も見るかも知れません。

結婚を承知しない裕福な家の娘という、よくあるモチーフに
まぎれてしまっているけれど、修道院へ入れてしまえば
カタリ派の娘が子供を産む心配はなくなるじゃありませんか。
カタリ派貴族の当主は娘を北方貴族と結婚させろ、
さもなくば一族郎党もろとも皆殺しと脅されれば、どうにか
しなくちゃなりません。

かくして、女子修道院は『キリストの花嫁』になる幻想だけは
特別に許され、システム上で助長さえされた。
一回くらいは花嫁衣装も着せてやるよ、ただし式が終わったら
髪を切れ。まあ、せいぜい幻でも見ておけって感じでしょうか。
そのかわり、一生修道院から出てきてはならない。
人にものを教えてもならない。(女子修道院では司祭がいないと
ミサができません。無論、自分たちでやってはいけないからです)
体に合わないものでも無理に食べ、自己否定の中で暮らすがいい、と。
ローマカトリックはカタリ派を、完膚なきまでに叩きつぶし
『花嫁』という言葉はかつての輝きからはほど遠い
何の権利もない家事の従事者、または性奴隷と同義になり、
そしてもう一つは、ひっそりと修道女が見る幻として知られる
ようになった。

と、こんなことを考えてしまったのです。
こんな小説があったら読みます。研究書でもいいです。
誰か書いてくれないかなあ。
え、小説なら自分で書け? あ〜話が大きすぎて無理です。
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by toko_hamura | 2005-11-15 02:08 | 読書
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